高3の2学期も終わる頃。
受験を控えた私たち生徒にとって、最後の1週間はどの授業も、
「○○先生の最後の授業」という寂しさがあった。
最後の授業では、それぞれの先生が私たちに、それぞれの言葉と気持ちを贈ってくれて、
とりわけ印象に残っているのは、大好きだった英語のT先生が最後に贈ってくれた言葉。
それはこんな内容だった。
これから卒業して、社会に出て、広い世界を見て。
どうしようもなく辛いことが起こったり、逆境にぶち当たることもあるかもしれない。
そんなときに大事なのは、まず「怒る」こと。
自分が置かれた状況にしゅんとしてつぶれてしまうのではなくて、
どうして自分がこんな目にあわなくちゃいけないのか、
怒ってエネルギーをたくわえる(という意味で先生はこう言ったんだと思う)。
次に、「神様が自分に試練を課した意味を考える」。
そして、そこから自分に必要なものを学び取る。
「それでもどうしても立ち直れないようなことがあったら、
そのときはいつでも、この場所に戻ってきてください」
最後に、先生はそう言った。
あれから10年ほど、幸いにして「辛くてたまらないから母校を訪れる」という事態に陥ることはなかったけど
(何かパワーを充電したくて、同級生と遊びに行くことはあったけど)、
T先生のこの言葉は、今でもどこかで自分を支えてくれている気がする。
* * *
べつに逆境にぶち当たった、とかそんな大げさな話でなくても、
起こることには必ず何かしらの意味がある、と私は常日頃から思っています。
そのときはその意味がわからなくても、振り返れば必ず、
「あれにも意味があったなあ」と思うようなことばかり。
でも実際、「本心で望んでいるわけではないこと」が起こっている真っ最中に、
おとなしくその意味を考えて何かを悟ることって難しいと思う。
だから私は何か自分が望んでいないはずの状況に陥ったとき、
自分から敢えて行動を起こして、その意味をつくるようにしています。
私がブログを始めた直接的なきっかけは、恋愛でつらいことがあったのがきっかけでした。
でもその出来事に何か意味を見出したくて、
「それが起きていなければ起こり得なかったこと」を自分から起こそうと思って、
行動を起こしたひとつの結果がこのブログ。
これもまた、「雛が先か卵が先か」みたいなもので、
今振り返ればブログを始めることは私にとって必然的な流れだったようにも思えるけれど、
やっぱり自分で物事の起こる意味をつくりにいった結果がこれ、という気持ちも強いです。
本心でやりたいと思える仕事に就いていないのであれば、
「この仕事に就いていなければ起こり得なかった何か良いこと」を起こす。
気の合う同僚と飲みに行ったりとか、
「本心でやりたい仕事ではない」という気持ちをバネにして、
望む状況を手に入れるために習い事を始めるとか。
会いたいなと思う友人や恋人となかなか会えない状況であれば、
「彼らと頻繁に会えていたら起こり得なかった何か良いこと」を起こす。
彼らと会えないがために空いた時間で、本を読むとか買い物に行くとか。
趣味や勉強に没頭して、自分にとって有益と思えることをする。
そうしていれば、一見「望んでいなかった」と思えるような状況が、何かしら意味を持ってくる。
自分から積極的に動かなくても、きっといつかはその意味に気づけるものだと思うけど、
自ら動いて物事に「意味を持たせにいく」というのもまた、なかなか面白いものだなと思います。
べつに望んでいない状況だけに起こる意味があるのではなくて、
望んでいたことが叶ったりとか、そういうときにもまた、
縁やタイミングなんかも含めて、何かしら意味があるんだろうな。
すべての出来事を自分の糧として、
日々成長していけたらいいなーと思います(´v`*)
Liebe Grüße,
Natsuru
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