ジーザス・クライスト=スーパースター -その2-

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劇団四季、ジーザス・クライスト=スーパースター、
6月12日(金)公演の感想、つづきです。
(前回の記事はこちら→

前回に引き続き、マニアックで個人的な感想(ネタバレ含む)、
且つ、この作品をひとつの芸術作品として見た感想です。

 

★ゲッセマネの園
ジーザスの心の内が明かされる曲。
初めて観たとき、とにかく歌詞が衝撃的でした。
彼が群衆と変わらない「1人の人間」であることを思い知らされるような表現の連続。
それでもやっぱり、死を前にした落着きと覚悟には人間離れしたものがあって、
ジーザスという存在をどうとらえるべきなのか、いつも考えてしまいます。

少なくとも、俳優さんがどういう気持ちで演じられているのかすごく興味がある。

 

ものすごくどうでも良いのですが、弟子たちが眠ってしまったときのジーザスの声掛け、
「ペテロ、ヨハネ、ヤコブ」の「ヤコブ」と呼ぶときの声の低さと深みが大好きです(笑)

 

★逮捕
ユダの密告により、兵士たちがジーザスを捕えにやってくるシーン。

ここでジーザスを抱きしめ、口づけするユダを見ているのも本当に切ない。
ゆっくりとジーザスに近づき、そして離れるその姿を見ていると、
この瞬間に時が止まってしまうことをユダが願っているような気すらします。

弟子のペテロたちが目を覚ました後にジーザスが言う「なぜ戦うのだ 終わりが来たのに」という台詞には、
本当にひとつの時代の終わりを感じる。

その直後に、これまでジーザスを神と崇めてきた群衆たちが180度態度を変えて彼を責めることからも、
何かが終わってしまった虚しさが感じ取れます。

この群衆の変わり身の早さは本当に恐ろしいくらいだけれど、現実はやっぱりこうなんだろうな、とも思う。
とてもリアルで、だけどやっぱり悲しい描写です。

 

★ペテロの否認
ジーザスが逮捕された瞬間、裏切りを働くのは群衆だけでなく、弟子のペテロもまた…というシーン。

ジーザスが予言したとおり、ペテロは三度、ジーザスの弟子であることを隠し赤の他人を装います。
人間の弱さが浮き彫りになって、それをマリアに責められるペテロ。

これがもしマリアだったなら、捕えられても、その場で殺されたとしても、
最後までジーザスの味方をしたんだろうな。

 

★ピラトとキリスト
ピラトの「お前がユダヤの王というのは本当か?」という問いに、
「あなたが今そう言われた」と返すジーザスの意図がどうもわからず、
少し調べてみたけどやっぱりよくわかりません。

この2人のやり取りは全体的に謎めいた台詞が多い気がする。
ので、今度いろいろ文献を読みあさってみようかな。

 

★ヘロデ王の歌
どんどん暗くなるJCS後半において、唯一の明るい歌というか、なかなかぶっ飛んだ歌である、
と言っても良いと思います。

このシーンにこの曲調を持ってくるところがさすがロイド=ウェバー氏!と思ってしまうのですが、
ヘロデ王の登場シーンは「来た来た!」ってわくわくしてしまう。
エルサレムバージョンにおいてもジャポネスクバージョンにおいても。
ちなみに、ジャポのヘロデはよりぶっ飛んでてものすごく面白いので一見の価値ありです。

 

北澤さんと言えば『WICKED』のフィエロだけども、
このヘロデ王はハマリ役だと思う!
前回観たときの方が、初見ということもあってインパクト大だったけど、
今日も相変わらず美しかったです。
きらきら衣装のまあ似合うこと(笑)

やはり貫禄やコミカルな雰囲気は下村ヘロデの方が上ではあるけど、
なかなか面白いキャスティングだなーと思います。

このぶっ飛んだヘロデを見て、ジーザスが心の底でどう思っているのかも気になるところ(笑)

 

★やり直すことは出来ないのですか
ペテロのナンバーでもあり、マリアのナンバーでもある。
ということで、やっぱり星の瞬きみたいな曲調で好きです。
オルゴールとかで聴いたらすごくきれいだと思う。

取り残されて、ただジーザスの死を待つことしかできない人たちのやりきれなさが伝わってくるんだけど、
それをこんな美しい曲で表現するところもまた、ロイド=ウェバー作品のすごいところだと思います。

 

★ユダの自殺
ユダの苦悩と、渦巻きのような照明と、地獄(あるいは天国?)からの声の関係性が興味深いシーンです。

この地獄(あるいは天国)から声が聞こえる、という演出は、
個人的にはゲーテの『ファウスト』にヒントを得ているのではないかと勝手に思っているのですが。

 

このシーンで「私はわからない」とユダがうたうシーンは、
言うまでもなくマリアの歌、「私はイエスがわからない」と同じ旋律ですが、
ミュージカルにおいて、「同じ旋律を共有できる登場人物」というのは切っても切れない特別な個性、関係性を持った者同士であることが非常に多いと思います。

『レ・ミゼラブル』で言えばヴァルジャンとジャヴェール、あるいはファンティーヌとエポニーヌだったり、
『CATS』で言えばグリザベラとシラバブだったり。

だからこそ、この作品においてユダとマリアの対比というのは重要なポイントで、
1人はジーザスを裏切って自殺し、1人は最後までジーザスの傍を離れない、
けれどその根底にある愛の深さはどちらも同じ、
というところが本当によくできていると思います。

 

私はこのミュージカルを通して、ユダの裏切りにこういった解釈があることを初めて知ったのですが、
JCSのユダ像に興味を持った方にぜひ読んでみてもらいたいのが、
太宰治の『駆け込み訴え』という話です。

私も友人から教えてもらった作品ではあるのですが、JCSを観てからだとこの作品のユダ像が頭に入りやすいし、
純粋に「すごいな」と思わされる作品です。
途中で語り手自身わけがわからなくなっている感じとかすごい。
太宰治がこういう作品を書いているというのも、知ったときはとても意外でした。

 

★ピラトの裁判と鞭打ちの刑
なんとも痛々しいシーンですが、
なんだか鞭の音が変わった気がする(響きがより大きくなった気がする)、などと物語には関係ないことを思いながら見ていた面もあり(笑)

このシーンも大変だろうなあ。
ジーザスの舞台はきっと実際に立ったらけっこう急な坂になっていると思うので、
そこを自在に駆け回る役者さんたちが本当にすごいと思う。

「ジーザスを助けてやりたい」とピラト自身が思っていても、
事態を捻じ曲げることを不可能にする、群衆の力の恐ろしさ。

 

全然違うけど、『美女と野獣』の「暴徒の歌」なんかにも通じる点があると思うのですが、
恐怖となり得る対象を排除しようと団結する人々の勢いって止められないものなんだろうな。

 

★スーパースター
初めて観たときの何が衝撃って、「あのジーザス・クライスト」を「スーパースター」なんて言ってのけてしまうこの歌。
結局はこの価値観が一番衝撃だったのかも。

重い十字架を抱えて荒野を歩かされるジーザスに、「結局あなたは何者なのか」と地獄から問いかけるユダの歌。

生きているとき、いつも何かに怯えるように体を縮こまらせていたユダが、
地獄に堕ちたら別人のように活き活きとして、高みの見物的な雰囲気を出しているのも皮肉な話。

ジャポネスクではジーザスが頭にかぶる茨の冠を、ユダが直々に兵士の手に落とすのがとても好きな演出です。

 

ほんと、殺伐としたシーンを明るい曲で紡いでいく演出っていうのは憎いなと思うけど、
憎いと言えばとにかくセクシーな芝ユダですね(笑)

もうね、ほんっとセクシーで格好良い!!!
大好きな『CATS』のラム・タム・タガーを彷彿とさせます(笑)
この曲だけでも何度も観たくなってしまう(´v`*)

 

★磔
ビッグナンバーが終わった後は、ひたすら静か。
ついにジーザスが十字架にかけられるシーンです。
最初こそ痛々しくて目を当てられなかったほどだけど、
この頃は「あの十字架を立てるのは何気にものすごく大変だろう」と大道具の心配すらしております(笑)

 

★ヨハネ伝・第19章41節
ジーザスが息を引き取った後、ぴくりとも動かないのが本当にすごい。
直前まで息を荒げて声を出しているので、絶対肩で息とかしちゃいそうなものだけど、
息止めてるんじゃないかってくらい動かない。
あれは本当にすごいなあ。

と、物語とはまったく関係ない話になってしまいましたが、
切なくもすごい余韻を残してくれる終幕です。
星空の美しさも印象的。

本当にあっという間に終わってしまった舞台でした。

 

★カーテンコール
エルサレムバージョンのカーテンコールは明るくて大好きです。
音楽と共に全員集合!みたいな(笑)

溌剌としたユダの姿も見ていて清々しいし、ジーザスの微笑みも素敵。
金森ユダだと、このカーテンコールでジーザスとおしゃべりしていることが多く(笑)、
「あの2人がお話しされてる」感がとても素敵だと友人と盛り上がっていました(笑)

神永ジーザスはマリアをエスコートするようでいて、
マリアの方が歩くの速いから逆にマリアに引っ張られてる感じになってるのがかわいかった(笑)

 

 

今回もとっても満足できた舞台でした!
やっぱりこの作品は本当にすごい。

ここまですべて読んでくださった方が果たしてどのくらいいるのかは謎ですが(笑)、
長い長い感想を読んでくださってありがとうございました^^

 

JCSは意外と短い間隔で上演されている気がするので、
観たことがなく、キリスト教関係の芸術作品に興味のある方には特におすすめです☆

 

Liebe Grüße,
Natsuru

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