ジーザス・クライスト=スーパースター -その1-

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ちょっと感想が遅くなってしまいましたが。。

6月12日(金)の夜。

劇団四季の『ジーザス・クライスト=スーパースター』、

エルサレムバージョンを観に行ってきました!

場所は浜松町の自由劇場。

自由劇場はなんだかしっとりした大人の雰囲気があって素敵です。

このポスターにも書かれているとおり、この作品(略してJCS)はイエス・キリストが十字架に掛けられるまでの、
最後の7日間の物語。
『オペラ座の怪人』や『CATS』も作曲したかの有名なアンドリュー・ロイド=ウェバー氏の
かなり初期の作品です。

今回のキャストはこちら!(やや見づらいですが。。)

実はこの作品、初めて観たのは10年以上前、高校1年生のときなのですが、
初観劇でものすごい衝撃を受けた作品で、
それ以来、公演される度に何度も観てきた作品です。

なんだかんだもう20回近く観ているかもしれないのですが、
いまだに新しい発見があったり、同じシーンでまた違った印象を受けたり。

 

今回1年半ぶりに観てあらためて、
この作品をロイド=ウェバー氏の最高傑作と言っても過言ではないな、と思いました。
実際は『オペラ座の怪人』や『CATS』も甲乙つけがたいのですが。。

とにかくすごい舞台なので、一見の価値あり。
重いテーマに反し、ロックオペラに位置付けられているこの作品は明るい曲調のナンバーもとても多いので、
退屈せずに観られる作品だと思います。

逆に無駄なシーンがなさすぎて息つく間もなく(笑)、休憩時間も一切なく、
始まったら最後まで約100分、ノンストップな作品です。

 

以下、自分の備忘も踏まえ、いろいろとマニアックな感想が続きますが、
この作品は本当に様々なとらえ方ができると思うので、あくまでも個人的な感想、
且つ、史実は抜きにあくまでもこの作品をひとつの芸術作品として見た感想になります。
ネタバレになるような細かい描写も含みますので、ご注意ください。

★序曲
舞台上に広がるエルサレムの荒野に流れる怪しげ(?)な曲。
急に雰囲気が変わる瞬間のジーザスの登場の仕方が最高に格好良いです。
彼と一緒にわさわさと出てくる群衆と、斜め後方から登場するユダも、見るだけで鳥肌が立ってしまいます。

群衆のわさわさ感、と書いたけど、
JCSのアンサンブルは本当にすごい!!
さっと立ち回って、いつの間にかいるべきポジションにしっかりいて、
群衆の1人としての、極限まで個を殺した表現にうならされます。
数ある作品の中でも、JCSのアンサンブルはきっとかなりの体力が必要と思われる。。

余談ですが、ジャポネスクバージョンの「序曲」もまた全然違った雰囲気で格好良いのです。
あっちはユダを筆頭に、またわさわさとアンサンブルが登場してくるのが好き。

 

★彼らの心は天国に
ある意味で一番好きなナンバーがこんな冒頭から来てしまうのですが(笑)、
ジーザスの今後を案じる、ユダの悲痛な心の叫びをうたったナンバー。

初めて観たときに、その力強い歌声で私に鮮烈な印象を残してくれた芝ユダ。
(ちなみにこのときのキャストは柳瀬ジーザスに保坂マリアという、今思えば伝説的なキャスト)
一時期はあまりユダを演じられていなかったのですが、
最近また芝さんのユダを観ることができて本当に幸せです!!

苦しむ人を懸命に助けようとするジーザスの傍らで、「行き過ぎはよくない」と忠告するユダの声が、
ジーザスには届かない(届いていながら、聞こえていないように振る舞っている節もあるんだろうけど)という切なさ。

最近観るユダは比較的、喉から絞り出すようにかすれた声でうたっていることが多かった気がするのですが、
なんだか今回はゆったりとした声でうたい上げる部分が多かったように感じました。
むかしのユダもそういう感じだった気がするので、私はそっちのイメージの方が強くて好きかも。

ここのアンサンブルのリズムを取るような動きと、下手側から神々しい光が射してくる演出もとても好きです。

 

★何が起こるのか教え給え
ユダの苦しみのナンバーから一転!
切り替わるような音がしたかと思うと、なんだか爽やかなナンバーが始まります。

つくづく思うのが、ジーザス役の人は第一声から高めのうたい出しなので大変だろうな、ということ。
直前に咳払いとかもできないし、私があの役だったら毎回けっこうどきどきする気がする(笑)

今回の神永ジーザス、1年半前にも観たのですが
(当時、よくJCSを一緒に観に行く友人と、「この役のために生まれてきたような名前だね!」と盛り上がったのが記憶に新しい(笑))
その時は、「これまで観たジーザスの中で一番表情がわかりやすくて、
人間らしさが全面に出てるな」という印象を抱きました。

でもなんだか今回は、どこか人間離れした雰囲気が出てきている気がして(どっちの方が良い、という話ではなく)、
長く役を演じるとその人の持つ雰囲気とか、やっぱり変わってくるんだなあ、とちょっとしみじみしてしまいました。

そしてこの曲で第一声を迎えると言えば、マグダラのマリアもそう。
今回の山本マリア、観るのは初めてだと思うのですが、声の出し方や強さがとてもしっくり来るマリアでした。

そんなジーザス、ユダ、マリア3人の抜群の安定感と、ものすごく勢いのあるアンサンブル。
相乗効果で、なんだか今回は一際すごい!と思わされる舞台になっていました。

曲の話に戻りますが、この曲でジーザス、ユダ、マリアの関係性が明らかになる部分もポイント。
ジーザスがマリアに香油のお礼を言った後、
舞台上手で項垂れていたユダがゆっくりと顔を上げるところはいつも注目してしまいます。

 

★今宵安らかに

星の瞬きみたいな前奏の響きが好きで、聴いていてとても心地良いこの曲。
前にどこかで書いたかもしれないけど、マリアのナンバーはなぜか私の中で「南国」のイメージ。
なんだか「南の星空」のイメージなのです。

とてもマニアックなのですが、「思うように運ぶでしょう」のうたい方が「思おように運ぶでしょう」って聞こえるのが好き(笑)

ユダとマリアの対立、そしてジーザスの不安を煽るような発言に不穏な空気がただようけれど、
そのすべてをも包み込むような、安らかなマリアの歌声が本当に素敵です。

でも今回、この曲で一番印象に残ったのは、
マリアや群衆に連れられて去っていくジーザスに、両手を伸ばすようにしていたユダの姿。
ジーザスにその手を取ってもらえず、ぽつんと残されたその姿は、本当に切なかったです。

 

★ジーザスは死すべし
群衆たちが去った後、ジーザスの存在を快く思わない、大祭司カヤパたちが登場します。
なかなか他では見られないような衣装なのですが、当時は本当にこういう感じだったのか気になる。

 

★ホザナ
前曲の不穏な空気を吹き飛ばすかのような、異様に明るいメロディと共に戻ってくるジーザスと群衆たち。
カヤパたちにジーザスの動向を密告していた群衆の1人が、自然と群れの中に戻っていくのが印象的。

 

★狂信者シモン
群衆の勢いが最高潮に達するこの曲。
ノリの良い曲としても楽しめるし、群衆たちの高揚感が、体力を使い切るような激しい動きで表現されています。

シモンの思いきりの良い歌もなんだかすかっとする感じがあって好きなのですが、
今回のシモンはなぜかすごく現代の若者っぽい雰囲気があった気がする(笑)
今までに見たことのないシモンでした。

 

★ピラトの夢
急に静かな雰囲気になることもあり、失礼ながらむかしはちょっと休憩的なシーンのように思っていたけれど、、
もちろんこの後のシーンの伏線になっているし、
この後のシーンどころか、2000年の時を越えた現代へもつながってくる深みのある歌です。
舞台の後半で、この歌の旋律が流れる瞬間があるのですが、
それと合わせて味わうべき歌だと思います。

 

★ジーザスの神殿~今宵安らかに(リプライズ)
物語があれよあれよと進んでいくのですが、
このへんまで来ると「ああ、もうこのシーンか」と思います。

この曲も群衆の勢いがすごく好きだなあ。
なんだか怪しげなものを売る市場の様子とか、間奏中に飛び交う人の声とか、
止まらない勢いが、歯止めがきかなくなっていくこの先のシーンにつながってる気がする。

ジーザスの怒りを受けて蜘蛛の子のように散った群衆が、
また彼を求めてすがっていく姿もすごい演出だと思います。
伸ばされた手があまりにも多くて押しつぶされそうになり、思わず振り払ってしまうジーザス。
自分自身に茫然とするジーザスと、それでも優しい声をかけ続けるマリア。
どんどん終わりへ向かっている感がとても切ないです。

 

★私はイエスがわからない
ロイド=ウェバー作品の中でも、有名な曲に位置していると思います。
マグダラのマリアが、ジーザスへの想いを隠すことなく、まっすぐにうたい上げる曲。

群衆に「神」や「王」と崇められるジーザスを「1人の人間」として愛する姿は、
とても凛としていて格好良く、舞台に1人たたずむ彼女がとても強い存在に見えます。
この気持ちを抱いてジーザスについていくことを決意したとき、
今までの何もかもを捨てる覚悟をしたんだろうな、って思う。

かつてジーザスに救われた彼女が、最後にはジーザスを支える立ち位置にいる、
この構図がとても素敵だなと思います。

 

★裏切り
この曲の前奏(?)部分は、エルサレムよりジャポネスクバージョンの方が印象が強い。
静→動へと一気に曲調が変わる部分も好きです。

ユダがお金と引き換えにジーザスを売るシーンなのですが、
「金など欲しくない」というユダの言葉は本物だと思えるのに、
じゃあなぜお金を握りしめて「やった!」というようにその拳を天に突き上げるのか。
あらためてそんな疑問を抱きながら観てしまいました。

 

この作品では、ユダがジーザスを売るのはお金のためではなく、
「行き過ぎたジーザスを救うため」というのがきっと一番の理由になっていて、
その背景にはジーザスが遠い存在になりつつあることへの寂しさであったり恐怖であったり、
エゴ的な感情が渦巻いている部分もあることは間違いないけれど、
根底にあるのはやっぱりジーザスを「1人の人間」として愛する純粋な気持ちなんだと思う。

だけどあまりにいろんな思いが渦巻いて、自分でも何がなんだかわからなくなって、
「これはお金のためである」と自分を納得させるのが一番楽だから、
最後には自分自身をそう錯覚させたのかなあ。
自分自身をとことん汚い人間にすることで、
手の届かない純粋なもの(ジーザス自身や、自分の根底にある想い)を守ろうとしたのかな、とか。
考え出すと限がありません。

ユダがお金を受け取った直後、背後からジーザスが現れて、はっと振り返るユダ。
その表情が客席から見えないのがずるいというか、悔しい感じもあるのですが、
対するジーザスの表情は見えるので、ユダの表情はここから想像すると良いのかもしれません。

 

★最後の晩餐
あまりにも有名なシーンがとても穏やかで心地良い曲で始まり、
かと思うとジーザスの苦悩や、人間らしい感情がむき出しになる波乱のシーン。

ここのジーザスとユダの言い合いは本当に切なくて、
後戻りできないところまで来てしまった感じ、誰にもどうにもできない歯痒さが、
2人の心の叫びのような声に表れています。
ここのユダは、どこか駄々をこねる子どものような印象もある。

もう何度も観ているシーンなのに、今回はユダの「私は理解ができない」で鳥肌が立ちました。
このフレーズはこの後のナンバー、「スーパースター」でも出てくるフレーズですが、
このシーンとのうたい方の違いが、(興味深いという意味で)とても面白いです。

 

舞台の感想をちゃんと書こうと思うといつも予想以上に長くなってしまうので、、
このあたりで一旦切り上げようかと思います(笑)
続きは後半で!

 

Liebe Grüße,
Natsuru

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